広島市安佐南区から市政を新たに! みんなでいっしょに変えて行きましょう!
石橋竜史(いしばし りゅうじ)の公式Webサイトです。
先週の金曜日、本会議終わりに、原爆ドームの視察へ行って参りました。
と申しますのも、これは決して自らを美化する訳ではありませんけども。
私は、コレまでメディアに携わって参りましたので、平和なり広島を発信するにあたり。
上辺だけで“モノ申す”事は出来ますが、裏を返せば、そんな薄っぺらいスタンスで活動したくない。
と表現するより、まずは「知らなければ、喋られない」ので。
長年にわたり、年に複数回は必ず、平和記念資料館へ足を運んでおりました。
そして、話は原爆ドームへと移りますが。
この世界遺産は、平成4年から原則“3年毎”に「健全度調査」が行なわれており。
つまり、原爆ドームの内部・周囲に足場を組んでは。
専門の調査員が実際に建物を目で見て、軽く叩いては反響音を耳で聴き、スケール(定規)で測り。
“経年劣化”等の状況調査(ひびわれ、鉄筋の露出、腐食、鋼材の変形等のチェック)を行います。
「調査が如何に行なわれているのか?」は勿論。
その身をもって“被爆の惨禍”を今日まで伝えて来た原爆ドームを間近で見たくて。
なんら偽る事なく、学びたくて、コチラから手を上げては、会派の有志と視察へ向かいました。
※補足までに、一般開放され「誰でも原爆ドーム内へ入られる」わけではありません
最初に驚かされたのは、建物を間近で見たならば、あらゆる箇所が、それは細かく装飾されている。
それもその筈で、後に原爆ドームと呼ばれる事になる、この産業奨励館は。
1915年に、チェコの建築家が設計したモノ。
当時、欧州では※「アール・デコ様式」が現れては、世を席巻していた時代であり。
※1910年代から30年代にかけ、建築・絵画・ファッション等の分野において、フランスを中心にヨーロッパ、また世界的にも大流行した「装飾様式」の総称
偉そうな物言いで恐縮ながら、NYのマンハッタンには、こうしたアール・デコ様式の建築物が至る所に現存しては。
かつ、現役バリバリで使用されては街を彩っており。(エンパイア・ステート・ビルやクライスラー・ビル等)
目の前で、こうした「当時の息吹」と遭遇すると、それだけで胸に去来するモノがあります。
そこから、足場を一段、また一段と昇って行くと。
高さ25m地点の骨組みが剥き出しとなった、半円形をした屋根の部分へ到達。
原爆は、ここから南東へ約100m、その上空、約600m地点で光と熱、爆風を放ったのですが…
屋根部分の鉄骨、その一部が、厳密に対角線上となる北西へ曲がっていて。
もう言葉を失ってしまいました。
また、グランド・レベルに見られる“噴水跡”なども…
「ココへ確かに市民の暮らしが存在していた」と当時を如実に体現していたり。
ともあれ、改めて再認識する事となったのは、産業奨励館が「川を背に」でなく。
「川と対面した造り」となっている事実。
繁栄、隆盛、謳歌と申しますか。
建物自体が、無言ながら“当時の情景”までも饒舌に語りかけて参ります。
で、我が「リ・アクション」の話。
帰宅後、直ぐに書店へ直行しては、被爆後、復興へ向けて「再出発した広島」関連の書籍、写真集を購入。
※補足までに、当然ながらコレまでも、行き届かないながら勉強はさせて頂いてますけども
この週末、予算特別委員会への準備や地域活動の合間を縫っては、むさぼる様に目を通してみると…
何でしょう。
みんな「団結」している。
この広島市を「何とかしよう!」「再生させよう!」と、市民が、職員が、議員が、訪れた外国人までもが。
団結していた。
正直な話、「我々は、こんな素晴らしい先輩方を持っているんだ」と。
若輩なる自分までも、「広島市民」として、どこか誇らしく感じてしまう次第。
議員にさせて頂き、日々、人に街に、教えられております。
これを、人へ街へ、還元しなければウソになる。
まだまだ発展途上の身であり、不勉強で甚だ恐縮ながら、今後も真摯に取り組む所存。
先人のパワーと行動で示された未来への方向性、確かに承りました。
投稿日 : 2012年2月27日