朝から、安佐南区、西区、東区、中区、南区へと及ぶまで。
市内を縦横無尽に自転車で快走しておりますけども。
まあ各所で桜の美しいのなんのって「次は如何なる表情の桜が?!」と。
期待感が止まらず、ふと気がつけば県境あたりまで行ってしまいそうです。
無論、行きませんし、行けませんが、そんなこんなで。
本日“最後の予定”となる19時から20時半までの実行委員会を終えて帰宅。
食事を済ませては一段落した後、さてと。
「ブログで何を書き綴ろうかな?」と、思案したところ。(ネタは有り余る中)
前号では“自らの選挙”について触れましたので。
続編を展開すると致しまして、立候補する前も、現在に至っても。
広島市の在り様を「相変わらず憂う」私としましては。
話が唐突にも時空を超えて、しかも他県へと飛躍しますが。
筑後川の流れる、福岡県うきは市の「大石堰」にまつわる…
「五庄屋物語」を、ココに改めて回顧せずにはいられません。
まずもって「筑後川」とは?
熊本県は阿蘇山を水源とし、そこから大分県へ入り。
更に福岡県と佐賀県をまたぐように有明海へ注がれる。
全長143km、水量は九州随一を誇る“一級河川”であり。
では、その「五人の庄屋の物語」とは?
時は寛文(かんぶん)三年(1663年)にまで遡ります。
元々、この辺りの地域一帯は「水」に恵まれず。
少し日照りが続くと、餓死者が出る様な貧しい土地でありました。
特に“先述の年”は大干ばつに見舞われ。
人々は、木の根、草の根まで食べ尽くし、多くの餓死者を出す事に。
「何とかしなければならない!」
地元「五人の庄屋さん」は立ち上がり、相談を重ね。
「近くには大きな筑後川が流れている」
「そこから水を引いて来るしか我々に生きる道はない」
「しかし、ここより低い所を流れる水を持ち込むには…」
「皆で岩を運んでは川底に敷き詰め“堰”を築くしかないだろう」
「相当なる難事業になるだろうが、やるしかない!」
「自らの命を捧げてでも、成し遂げようじゃないか!」
と、五人で誓詞(せいし)の血判をしつらえ、藩の奉行に駆け寄ります。
一方、藩としても、土地や人々を救う為。
願ったり叶ったりではあるが「成功するか否か?」分からぬ事業を…
簡単に許可するわけにも行かず。
かつ、実現には多くの村々の人々を、工事へ借り出さなければならない。
奉行筋のみならず、村人からも慎重、反対の声が上がります。
しかし、五人の庄屋さんは必死であり、何より“覚悟”を決めていた。
「万が一、事業が失敗する様であれば、どんな罰でも受ける」。
結局、その熱に押され、藩は事業の推進を決定するのですが。
「事業が失敗した場合は、五人を磔(はりつけ)の刑に処する」
との条件が付けられ、コレは単なる脅しではなく。
工事現場には「五基の磔台」が設置される事になりました。
そんな背景を伴いながら、大事業は開始される。
時には、巨岩を百人がかりで二日も費やして運び出すなど。
工事の進捗は難航を極めます。
でも、現場で働く人々の間では、一つの合言葉があった。
「五人の庄屋さんを絶対に殺させぬ!」。
かくて、大石堰が完成しては、水路が伸び。
溢れるばかりの滔々(とうとう)と流れ出る水が大地を潤し。
殺伐とした原野は…
金色の稲穂が波打つ沃野(よくや)に変貌を遂げたと。
それから約250年もが経過した今、この実話を振り返ってみても。
当時の「情熱」(責任感)が鮮明に私共の心へと伝わって参りますが、反面。
利己にあらず、利他を極めん為、この「自らの人生」まで賭した…
そんな庄屋さんが、現在の広島の政財界にいらっしゃるか?
無論、私ごときが「居ない」と断定などしておりません。
「いらっしゃるのか?」と、問うているのです。
東部連続立体交差事業に、アストラムラインの延伸。
旧市民球場や西飛行場の跡地に、福山は鞆の浦に至るまで。
一つの用いる比喩として、当該となる地へ…
見えない筈の「磔台」が浮かび上がって来たらば?
この広島が抱える数々の大きな事業は、前進を果たす事でしょう。
と、思うのです。
自らや市議会への自戒も込めて。
投稿日 : 2017年4月05日
『time travel』