唐突の感はあるが、ちょっと触れてみたい。
TBS系の報道番組であり「日曜の朝の顔」のポジションを確立。
今なお、長寿番組でありながら視聴率も高い数字を保つ。
「サンデーモーニング」のメイン(総合司会)を36年と6カ月務めてきては。
今朝の生放送をもって降板した「関口宏」氏について、である。
重ねて、同氏個人のみならず同番組についても、である。
まずもって、番組スタートから40年にも迫ろうというのに。
まるでコンビニの新商品の如く、生まれては消える(淘汰)までの…
サイクルが早く、かくも「数字(視聴率)競争」の激しい業界にあって。
今なお「13%以上の視聴率」を保ち、ジャンル別(報道関係)は勿論。
同時間帯や全カテゴリーの中でも上位にある、その「番組」自体については。
たとえ「セッツインユースが高い日曜の朝」を差し引いても、賛辞に値する。
(SIU:全TV受信機の中で何パーセントが現に放送を受信しているかの割合)
(日曜の朝は平日より在宅率も高く、必然的に「高い」傾向にはあるにせよ)
重ねて。
私は御年80にもなる大ベテラン(喋りの世界では大先輩)の関口氏に対し。
個人的な「負の感情」を持っていない。
「嗚呼、今日もそこで喋っている」との認識にすら至らず。
いわば「TV界」の重鎮、一つの当たり前の風景であり。
とどのつまり同氏への「好悪」すら持っていないことに…
改めて、今さらながら気づかされ。
失礼な物言いになるが、究極の誉め言葉で「like the air」空気の如くである。
しかし。
あれはいつ頃からであろうか。
「初心」など遥か彼方に忘れ去っている同氏に対して。
なぜ彼を起用し続けるのか?
誰が何の権限で“勝手気ままな”MCの振る舞いを許しているのか?
ひとたび「その疑問」が胸中に芽生えてしまうと?
同氏が番組を卒業する今朝まで。
色濃くはなれど決して消えることはなかったのである。
一応、繰り返すが「好悪」の話ではない。
たとえば、一例をあげてみたい。
TVであれば昨今、司会者の読み原稿は「プロンプター」に映し出されており。
(喋り手が顔を向けるカメラレンズに「文字原稿」が映る&番組によってケースバイケース)
NHKのニュースなどを見ると分かり易いが、その読み原稿が手元に。
喋り手は“前方(のカメラ)を向いたまま”机上の「読み原稿」をめくり…
(自らで文字を、いわゆる「スクロール」させては)報道記事を読み進めていく。
補足まで、そこ(手元)に視聴者が視線をやってみれば…
間違って複数のページをめくらぬよう用紙の「角」を折って(犬の耳にして)は…
オペレーションの正確性を保ち、かつ潤滑化を図る工夫が目に取れる。うむ。
しかし、関口氏は違う。
“左上”一カ所をホッチキスで留められた「読み原稿」の束を手に持っては。
それを“めくる”ペーパーノイズの発生も(マイクが拾うのも)ワレ気にせずで。
生放送中に「ベラベラ」と音と立てて原稿をめくり、ペラペラと喋り続けていく。
TVに限らず、音声のみで伝える「ラジオ」媒体など、いうまでもなく。
喋り手は、この「ペーパーノイズを立てる」所業をご法度とされ。
駆け出しの頃など、厳しくディレクターや制作スタッフから注意されるは…
一つの通過儀礼でもある。
さて。前述などは「一事が万事」ではないが、好個なる一例であり。
他にも。(敢えて「近年」では)
原稿を読み始めて…
「えっ?!ここでCMなの!?」
(カメラには目もくれず)「はい、いったんCMでぇす」なんて。
段取りを把握していない事例など「見ない放送回がない」ほど常態化し。
重ねて。(決して糾弾する意にあらず)
ゲストのコメントを途中で遮断する。
つい知ったか振ってしまえば翻り「それは分からない」の連発。
数々の強弁に、それこそ「偏向」といわれたりも。
つまりは、総合司会たるや毀誉褒貶が派生してナンボ。
ネット上のコメントの類へ過度に囚われる必要はなくとも、そこには?
同氏へ対する「限界」「老害」とのワードが渦巻いていたのは確かで。
また。
冒頭にて「同番組についても触れてみる」と記したところ。
番組の構成、内容、スタイル云々の前段に。
関口氏といえば、TBS系の“過去のヒット番組”を振り返っても。
「クイズ100人に聞きました」「わくわく動物ランド」「東京フレンドパーク」等々。
間違いなく、激動の時代に業界(に加えTBS)を支えた功労者である。
同番組名にせよスタート時は。
「関口宏のサンデーモーニング」と冠(同氏の名前)が付いていたが。
御年80。
制作サイドには同氏より「年上」が皆無であろう、この状況下。
誰が猫の首に鈴を付けに行けるであろうか?
誰が引導を渡せるであろうか?
1億2000万人が暮らす極東の島国にて。
国より認可、与えられる限られた公共の電波を駆使し。
放送事業者がしのぎを削り、繰り出される多様な番組の数々。
ながら、裏を返せば「番組数」など、多いようで実際は限られており。
そこで「メインをはる」。「はり続ける」。
これは、時の運では片づけられず。
同氏の才覚に“企業努力”があったことは特筆するまでも。
(自身が芸能事務所の代表を務める)
しかし、此処へ引き合いに出せば。
至言に「ポストは人をつくる」。
パラレルワールド(並行した別世界)があったとし。
“そこ”で次代の司会が経験を積み、さらなる上質の番組、報道を。
より広く、よりリーダブルに…
の機会が失われ続けていたのは「どこかを境」に明白となっていたのは事実。
久々に長々と綴るも、とどのつまり何を言わんや?
酷似する世界がそこかしこに。
そう。
政治の世界も「同様である」は、紛うことなき現実であり。
地方議会でいえば「議員」も例外ではないが、それ以上に。
全国的にも「首長のポジションこそ」であって。
なぜ?
まちづくりのプロ(行政職員)が直下、直結しているに起因しており。
ポスト(玉座)が長ければ、長いほどに。
組織は硬直化し、ダイナミズムは失われ続けていく。
さすれば。
「それは組織(職員)の責任でもあろう?」との提起はあろうが。
現場の実働隊にすれば「アレは駄目」「こうしなさい」と。
仕事のための仕事が10年以上も連日にわたって繰り返されれば。
かくも人間とはデリケートであり。
エレファント・シンドローム(象症候群)に陥るも節理。
(早くから杭につながれ、成長しようとも杭から逃れられないと無意識化に植えつけられる)
繰り返せば、ポストは人をつくり得る。
如何に優れた首長であろうと、愚鈍な首長であろうとも。
「多選」によって失い続ける好機と融通無碍なる柔軟性を…
誰よりも先んじて「自ら」が認識すべしで。
いずれにせよ、話を戻せば。
素人が思い描くほど「キー局の生放送で喋り続ける」など容易な営為ではなく。
誠に僭越ながらも、前述の関口氏には。
中心より、ねぎらいの言葉を贈りたく。
業界では当たり前に使用するも、尊き言葉。
「お疲れ様でした」と。
奇しくも時は春。
市役所のエントランスでは。
季節の風物詩。
被写体として人気の枝垂(しだれ)桜が本年も首(こうべ)を垂れ。
その姿、美しく。
ちり際もわきまえ。
けだし訓なり。
投稿日 : 2024年3月31日
『ショートエッセー「サンモ二」』