広島市安佐南区から市政を新たに! みんなでいっしょに変えて行きましょう!
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8月5日。
ケネディ駐日大使が広島空港へ降り立った夕刻。
時を同じくして、私は?
建設委員会の市内視察を終えては、車を1時間走らせ…
ある「お寺さん」におりました。
と、申しますのも、この度。
「高校生災害復興支援ボランティア派遣隊」の活動に於いて。
広島県内の高校生と福島県から訪れた高校生が参加しては。
8月3日〜7日まで、平和学習をはじめとした「交流会」が行なわれており。
その一環として。
「高校生達が被爆の実体験を聴く」機会へ、私もお声を掛けて頂き。
会場となりましたのが、前記の「お寺さん」。
※高校生災害復興支援ボランティア派遣隊とは?
そして、中学三年生の頃、爆心地から550mの場所で被爆をされた女性の。
「当時から今日に至るまで」のお話を伺いました。
私も、何人もの方々から被爆の体験談を伺っておりますし。
以前、当ブログでも触れましたが、議員にさせて頂く以前より。
「広島人がヒロシマを風化させぬよう、忘れぬように」と。
昔から継続して、定期的に平和記念資料館へは足を運んでおりますので。
まだまだ不勉強ながら「下地」はあるつもりでしたけども。
やはり、息遣いと共に「実体験」をお伺いすると。
これまでの一切合財が全てリセットされるほど、胸に伝わって来るモノがあり。
改めて。
この度、お話をして下さった女性は、被爆後に重傷を負いながら、必死に郊外へ避難を試み。
途中、落橋により、川を泳いで渡る最中、溺れかけたそうです。
そこを、学校の先生が自らの命を顧みず、救って下さり。
数日後、探し回っていた父親が、救護所で応急処置を受ける自分を見つけてくれては。
大八車に乗せられ、ようやく帰宅したのが8月の10日。
そこから、10月の末まで、40度の高熱は下がらず。
ようやく体調が落ち着いて来ても、爆風で重度の火傷を負っては。
一方の視力を失い、尊い妹までも失い。
自らを救ってくれた先生に対して。
「なぜ私を助けたの!?」「あの時に命を落としていれば…」
ずっと恩人を恨み続けていたと。
また、心の中で繰り返される言葉は。
「戦争があったばっかりに」「あの原爆さえなかったら」
若くして心身に大きな傷を負い、何よりの青春が失われた。
しかし。
周囲の人々の温かい「思いやり」に触れては、徐々に心境の変化が訪れ。
お話の終盤で、口にされました。
「今は、あの時の先生に心から感謝しています」
「亡くなった方々みんなの代わりに生かされていると思って」
「日々を頑張っています」と。
そして、末尾に、目の前で真剣に話を聴く学生へ対して。
「やれる事を、やって欲しい」「みんなで助け合って下さいね」
と、静かに柔和な笑顔で告げて下さいました。
続いて、今度は福島から広島を訪れている女子高生が。
東日本大震災による体験談を「広島の人々へ届ける」べく、口を開きます。
他県の伯父さんの家に一時避難した際、ガレージに車を停めていると。
「福島ナンバー」と言うだけで、車に「帰れ」と落書きをされたり。
目の前での実被害に、間接的な風評被害の数々。
最後には涙を浮かべる生徒さん。
その手を、語り部の女性が優しく握っては。
穏やかに、それは優しく慰めて下さっている姿に。
私などは、もう言葉を失いました。
8月6日。
広島は、あの日から69回目の朝を迎え。
空は、同日の式典としては「1971年以来」となる雨模様。
私共は、市議の席へ「7時20分まで」に会場へ入る事になっているのですが。
職員の方々をはじめ、関係者の方々は。
当日は早朝より、また前日、そのかなり前段から。
万全の準備へ向けて取り組まれており、「慣例」と割り切れるでなく、頭が下がります。
そして、8時に式典が始められ。
雨中、国や県市、各々の為政者が、平和への宣言を述べられる。
そこで、ふと。
昨晩の語り部の女性が、塞ぎがちに吐露された言葉が思い出されます。
「今の日本を、政治を、世界を見ていると心配になるんです」と。
痛切するに。
「あんなにもご苦労された方々を、今なお心配させてどうするものか」。
一歩一歩ではありますけども、みんなで助け合いながら。
やれる事を、やって参る所存です。
今日を築いて下さった先人に、心から感謝の意を込めて。
投稿日 : 2014年8月06日