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日記|DIARY

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まずは、この報道から。
《県・市で見解の相違 “非核3原則法制化”にこだわらず》
『広島市の秋葉市長が平和宣言の中で非核三原則の法制化を求めるとしたのに対して』
『広島県の湯崎知事は法制化にはこだわらず「アメリカとの関係の中で三原則を守っていくことが大事だ」という考えを示しました』
『湯崎知事は定例会見で、核兵器廃絶を訴える日本が核の傘に入っていることは矛盾があるとした上で』。
『大事なのは「実際に非核三原則が守られることだ」と述べました』
続いて、先だっての報道にも目を通してみるとします。
《2020年夏季五輪:広島で招致を考える集い 市民ら意見交換》
『広島市の五輪招致・検討活動について市民が考える集いが中区の原爆資料館で行なわれ、市民ら約80人が参加して意見交換をした』
『パネルディスカッションで地域プランナーの小林氏は「五輪はどこで開催しても平和の祭典。広島で開催するから平和の祭典であるわけではない」
「核兵器廃絶という政治課題を五輪に持ち込むのは問題」などと述べた』
『日本ジャーナリスト会議広島支部の沢田氏は多額の財政負担を懸念。
「市の財政負担や財源など、市民が是非を判断するための情報提供や情報開示がほとんどない」と指摘。
「五輪招致の賛否を問う、住民投票をするべきだ」と提案した』
とあります。
私ごときも“いち市民”として何を言わんかと申しますと。
こと「平和」を掲げられれば、あらゆる事象が「是」(賛同や正義)とされ、そこへ異を唱える事に、どこか「タブー」な雰囲気が付きまとうモノ。
しかし、表層的な部分で「平和」に賛同するでなく、例え不勉強であれ、ふと立ち止まり考える。
「オートマティックな咀嚼(そしゃく)及び賛同」こそ、タブーなのではないでしょうか。
ある外国人が作成した「ヒロシマ・ナガサキ議定書」にしてもそうです。
これは「2020年の核廃絶へ向けた道筋」を示したモノではありますが、極端な表現を用いれば、概要はA4用紙にして数枚分の量。
しかし、世界では他国のNGOなどが、2020年の核廃絶へ向け、その段階(工程・内容)を事細かに定め、記しながら発表、既に活動されているモノもある。
そこには、ちょっとした厚みのある「書籍」くらい量の詳細が綴られております。
誤解の無き様に補足すれば、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を否定しているのではありません。
“核の廃絶と世界の恒久平和”を掲げ、私とて大賛同。
ただし!核の廃絶へ向け、練りに練られた、例えば「500」もの取り組み、詳細が綴られた他の議定書等がある中で…
大きな「4つの工程」だけが記された「ヒロシマ・ナガサキ」をアピールする。
下手すれば“横ヤリ”と申しますか、他の活動の妨げになる(遅らせる)可能性だってある。
だから、“賢明なる世界”が舞台となるNPT会議等では同議定書が採択されない(取り上げて貰えない)のです。
記念式典で述べられる「平和宣言」にしても然り。
私は、「8月6日が近づいて来たから」でなく、以前より原爆資料館に幾度も足を運べば、1947年の浜井市長から始まる平和宣言にも全て目を通しております。
そして、過去の平和宣言は「訴えたい」ことをストレートに表現する非常に端的で分かりやすいモノでした。
しかし、近年の平和宣言は、例えばアメリカに対しても「和解」を訴えて来たかと思えば「非難」をし。
昨年など、「オバマジョリティー」と賞賛の嵐。
確かに米大統領のプラハでの発言等々、心情は分かるのですが、どこか「ヒロシマ」と言う軸がブレている気がしてなりません。
しかも、「こんな事に取り組んでいる」「幾つもの加盟となった」と、「我が、我が」が先行して。
返す返すも、平和への取り組みに非難などしていない!
その手法が適切、的確なのか?「先ずは自分なりに考えてみてる」だけです。
人々とは“多様な感情”を抱くモノであり、そこへ対し、これまでの広島は決して「風通しの良い」環境ではありませんでした。
様々な角度から自由闊達に意見が述べられ、平和への活動、街の取り組みがブラッシュアップされて行く。
戦争の実状や記憶の風化が進むからこそ、血の通った“効率”は求められます。 |
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