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日記|DIARY

2009年11月20日  急がば勝利!


今から、遡ること56年前の「1953年」。


広島カープの本拠地は、観音にある広島総合グラウンドの球場でした。


そんな当時、地元新聞に投稿、掲載された「市民の声」。


その一部を抜粋したモノを、先ずはご覧頂きましょう♪


「カープのホームグランドを広島の中心地に建設する事を提唱する」。


「現在の総合球場は定員が、せいぜい2万人前後しかなく、しかも市の中心部から遠く離れている」。


「見に行くにも、ちょっと思い立ち、たまの週末に見ようと思えば、席へ座る為には、試合の始まる、4、5時間前に行かねばならない」。


「好きだから見物に行くものの、翌日の勤務にも支障を来たすと言うのが広島の現状だ」。


「広島の中心部に、せめて収容能力3万〜3万5千前後のものを作れば観衆もうんと増えるし、都心はますます繁栄するだろう」。


「ナイターの設備があれば、夜は市民大会、音楽会、盆踊りなど野球以外の催しなどもでき」。


「スタンドの下は貸事務所、貸店舗にし、食堂、売店を経営すれば余分の収入も得られる」。


「将来の広島の為にも、県・市当局者および広島全市民の一大運動として、ぜひ建設されるよう望む」。


如何でしょうか?


どこか現代の「サッカー専用スタジアム建設構想」とシンクロする部分が…


いつの時代も、どのファンも、感じる事は共通しており、思わず顔がほころびます♪


ちなみに、冒頭の年号あたりから「カープの本拠地移転」を望む機運が高まり始め。


現在の「基町の界隈に造る」と言えば、地元の住民より反対運動を受け…


現在の、「合同庁舎付近に造る」と言えば、頓挫して…


構想・計画は、なかなか前進しませんでした。


そこに業を煮やしたカープファン(後援会)の面々が、駅頭で当時の渡辺市長を取り囲み。


たっぷり、シッカリと“陳情した”のは有名な話。1956年の事です。


補足ですが、この陳情攻勢は“引っ切り無し”に続き、当時の新聞には、こうあります。


「市長はついに悲鳴を上げる始末」と(笑)


何も、当時のファンを悪者に仕立て上げるでなく、「それだけ熱望、それだけ熱心に取り組んでいた」と言う話。


それは、自らが愛するチームを、より好環境で観戦する為に。


また、それは資金難により、他チームとの合併や解散話までもが“現実性を帯びて”飛び交っていた「愛するチーム」を…


「集客」で救う為に。


私など“生粋のカープファン”ですが、敢えて申せば、先人も含めて「素晴らしいぞ!カープファン!」です。


今シーズンだって、「新球場が誕生した」とは言え、あれだけ沢山の人々が「夢の器」へ足を運んだのですから。


樽募金まで展開したカープファンの“熱意”が、紙屋町に市民球場を誕生、維持させて。


現代に、マツダ・スタジアムと言う新球場まで、もたらしている。


そこで。


私は、一般の方々より「広島にサッカー専用スタジアムを誕生させる為には、何に取り組めば良いでしょうか?」との質問を度々頂戴しますけども。


上記の様な前例はあれ、そこに正解など存在しません。


しかし、「この時期」だからこそ、敢えて申すならば。


「サンフレが残り試合を全勝して、アジア・チャンピオンズ・リーグへ駒を進めること」です。(可能性はありますので)


ならば、メディアでの取り上げられ方も“飛躍的”に変化、向上する事は間違いありませんし。


ホーム&アウェイで、アジア諸外国より、沢山のサポーターが「広島」を訪れる。


必ずや、専スタを望む「市民の声」は高まります!


その第一歩として、やはり明日の名古屋戦。


1人でも多くの友人知人をお誘い頂き、我らがサンフレッチェを勝利へ導くべく!


集いましょう!


広島ビッグアーチへ!

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