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日記|DIARY

2010年1月14日  無思考は無慈悲に通ず


先日、紙屋町の市民球場でカープのOB選手を招いてイベントが行なわれ、その模様がニュースで報じられておりました。


大野コーチが投げて、野村監督が打つ!


プレーするフォーム(所作)は、我々の脳裏に焼き付いた、あの時のまま。


短いニュース映像にも拘らず、どこか懐かしさに包まれました。


また、イベントに招かれた子供達を交え、野球教室が行なわれていたりもするのですが…


その模様を色んな角度からTVカメラで撮影しているので、報じられる画像のヌケ(背景)には。


これまた、あらゆる角度からの市民球場が映し出されるのです。


あの、やや薄暗いダックアウト(ベンチ)に、どこか温かい雰囲気を醸し出す黒土の内野グランド。


淡い黄緑色の外野芝に、自らの対面に飛び込んでくる、赤やオレンジの観客シート。


全てが懐かしく、しかも何の誇張をするでなく、どこか新鮮な感覚さえ覚えます。


久しく、人々の目に触れてませんもんね。


子供達が、そして往年の名選手達までもが、まるで童心に帰った様な笑顔でプレーする“あの映像”を、空間を見れば。


誰しも思うのではないでしょうか?


街の中心部にある“想い出のたくさん詰まった宝物”を、「本当にコレ以上、使用する事は出来ないのだろうか?」と。


私は、市民球場を長年に亘り管理、運営して来たスタッフの方々。


そして、沢山の建築関係の方々に、実際に球場へ足を運んで頂いてはお話を伺って参りましたが、皆様、異口同音。


「まだまだ十分に使用する事が出来ます♪」と。


勿論、多大な時間とお金を掛けて耐震等の検査をした訳ではありません。


しかしながら、確実に言える事は、老朽化で「残せない」のではなく。


「残そう」と言う意思、取り組みが無いから「残さない」のです。※まだ決定してませんけども。


同様の事例で言えば、時に球場の存続や改修に「いくら掛かる」と報じられ、そこがネックとなり「解体への道筋」が立てられたりもしますが、コレも違う話。


ある人物は口にされていました。


例えば、コンペが行なわれた際、市民球場の改修・存続費が「約20億円」と試算されていた。


が、しかし!20億円のお金が無ければ“存続不可能”になる訳ではない。


「10億円しか予算が組めないなら、その10億円で改修・存続の道を模索して実行する。また実行が可能なのです」。


「コレこそが“建築”の意義である」と。


私は、この度のニュース映像を見て、つくづく「ココって絶対に広島の宝物でしょう!」と感じました。


そこを、非情にも破壊しようとする人が存在する。


世の中には色んな人間が居る訳で、幾つもの考えや取り組みが交錯するのは常。


しかし!なぜに地元メディアが安直に「この3月で役目を終える市民球場」と、何の“ためらい”も無く報じるのか?


私ならば、いくらニュース原稿であれ、「このまま読んで報じる事が正しいのでしょうか?」と必ず伺いは立てます。


その原稿を、かたくなに「読まない」のではありません。反乱分子ではないのですから(笑)


でも「見識のフィルター」に1度は通すべきでしょう。


また、自らが報道ディレクターであったり報道記者であったならば。


「無慈悲」を助長する様な上記の一文は、根本の部分で絶対に盛り込まない。


新年早々のメディア討論会では、あるコメンテーターが、この様な事を言われてました。


「昨今の報道は、客観性ばかりを重視して、そこに主観が無い!」。


つまり、現場(現状)をリポートはするが、ならば報じる側は「どう思っているのか?」が欠けていると。


スクラップ&ビルド。


「今」に生きる未熟な我々が…


継承も無く、簡単に歴史を破壊しては、拙いアイデアで“安直”に新しいモノを創出するべからず。


懐古趣味に囚われているのではありません。


誰しも未熟なのですから、立ち止まるも勇気であり正義です。

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