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2021年12月議会 一般質問

まずは「核兵器廃絶へ向けた本市の取組」について伺います。

世界的なパンデミックにより、延期を余儀なくされていたニューヨーク国連本部での「NPT再検討会議」が、ようやく来月上旬に開催される運びとなり、更には歴史的な一歩を刻む事となるウィーンでの「核兵器禁止条約・第一回締約国会議」も開催予定となる来年3月が刻一刻と近づいて参りました。

そんな折、海外では又しても新型コロナが猛威を振るい「感染者が急拡大」している状況で、現段階ではNPT再検討会議も渡航者を含めた参加人数が、かなり制限される方向にあれば、一方のウィーンも先月下旬には、この数年間で4回目のロックダウンを迎えるなど、本市としても重要な会議に如何なる形でコミットできるのか?不確定要素の多い状況に置かれています。

されど、NPT再検討会議にせよ、たとえ渡航が叶わずともオンライン参加など、従前より松井市長が希望されていた様に、何らかの形で思いや願いを届けられる可能性は残されており、それは核禁条約の締約国会議についても同様ですので、こうした好機を前に、今回は「核兵器を取り巻く世界情勢」も加味しながら幾つか質問、提言を行なって参ります。

まず「NPT再検討会議」につきましては、核不拡散の条約発効から既に50年以上が経過しながら、核保有国へ義務付けられた「誠実に核軍縮交渉を行い、かつ完結させる」との約束は、関係各国の政治指導者が変わる度に「前進と後退を繰り返す」など依然、混迷が続き、前回会議でも最終的な合意文書は不採択に終わりました。

一方の「核禁条約・第一回締約国会議」につきましても、我が国は「米国との共同歩調や信頼関係の必要性」を理由にオブザーバー参加にも否定的な姿勢を示され、現段階では参加も“見送られる公算が高い”のが実情です。

ついては、核兵器廃絶へ向けて、私もコレまで微力ながら本会議や委員会の場で発言を繰り返して参りましたけども、例えば安全保障に思いを巡らせ、言葉を発する際に、一つ「新たな視点を得る」キッカケとなったのが、数年前に向かった、ヨーロッパへの視察でした。

この視察では、チェルノブイリやアウシュビッツ、日本政府観光局などを訪ね、また日程の合間を縫っては、ある日本の外交職員と意見交換をする機会が叶ったのですが、緊張の高まる中東情勢や専守防衛に際してなど、国家の安全保障や外交に関する実状の数々を伺い、「諸外国でも、こうして多くの日本人が陰となり日向となりて、要人と膝詰めで折衝を重ねては母国を守って下さっている」事実に、深い感銘を受けたモノです。

そんな個人的な体験談はさて置き、今一度、グローバルな舞台へ話を戻しますと、米国の最高位にある政治指導者として初めて「核兵器の無い、平和で安全な世界を追求する」と明確に宣言したオバマ元大統領が、しかし一連の文脈で「ゴールは直ぐに到達できるモノではなく、私が生きている間は恐らく難しいでしょう」と続けられるなど、緊張感の高まる世界情勢に抱える複雑な“お家事情”も含め、あのプラハでは、核兵器廃絶への理想を語りながらも現実政治に対峙する、その悪戦苦闘を滲ませました。

次に、自国の岸田総理ですが、4年8ヶ月の外務大臣時代には、米国大統領の広島訪問を実現され、その実績を追い風に、翌年3月から始まる核禁条約の交渉に「日本は加わるべき」との考えを当時、政府内で示されながら、この少数意見は外務省幹部をはじめ関係者から諫められ、結果、思いの丈が身を結ばなかった過去も新聞社のインタビューにて吐露されています。

歴代総理、その近代史の中でもコレだけ「核兵器廃絶」を表に打ち出される人物は稀ですが、昨年の秋に上梓された著書「核兵器のない世界へ」では次の様に綴られています。

「被爆地・広島出身の政治家として“核兵器のない世界”という旗を掲げようとしていますが、それを最初から政策の金看板にできる訳ではありません」「いわば『急がば回れ』の精神で臨むが肝要で…」「核兵器のない世界へ向けて、日本は理想と現実の狭間にある『細く長い道』を、これからも歩んで行かなければならない」と。

此処までを振り返り、私は厳しい現実ばかりを並べては「だから核兵器廃絶への道程は、長く険しい」と多くの為政者を代弁したい訳ではありません。

末席に位置しながら、現実政治は理解し得るモノの「急ぐが、回り過ぎて」しまえば、それは人類にとって手遅れになる可能性を多分に孕むが故、「まだ間に合う、今だからこそ」と警鐘を鳴らしている次第で、コレより、その最たる事例とも言える「イランの核合意問題」を取り上げてみます。

端的に経緯を振り返りますと2015年、核合意の締結時には、米国をはじめとする主要6ヵ国とイランがテーブルにつき、「イランが核開発を制限する」その代わりに、コレまでイランに科して来た経済政策を解除する内容でしたが、2017年にトランプ前政権が誕生した翌年、一方的に米国が離脱して、制裁が再発動。

約束の反故で、イランは再びウランの濃縮に着手したのですが、この“世界リスク”を何とかすべく、関係の悪化したイランと米国のバイデン新政権の間へEUなどが仲介役に入り、現在、ウィーンで間接協議が再開、行われている最中です。

また通例であれば、双方が条件闘争しながらも落ち着く所へ落ち着くのですが、この度は中国やロシアがイランへ触手を伸ばしており、交渉の場でも後ろ盾を得たイランが強気の姿勢を崩しません。

そんな現在のイランは、核爆弾の製造に必要なウランの「濃縮度90%あたりまで1カ月前後で到達する高度な技術を取得している」と言われ、仮に協議が決裂した場合、その余波は先に用いた通り「世界リスクに及ぶ」と目されています。

近年も、イランと激しく敵対するイスラエルとの間では、サイバー攻撃をはじめ様々な小競り合いが続いており、仮にイランが核兵器を手にした暁には、現在「無人の特攻型ドローン」が暗躍する中東界隈にあって、核施設への攻撃も不安視されており…。

他方、サウジアラビアの国防相は数年前のTVインタビューで「イランが核兵器を作れば、我々も同じ手段を取る」と口にされ、パキスタンの核計画に資金提供したと噂されるサウジは、既に「緊急時の核兵器提供」の約束をパキスタンと結び、専門家曰く、その入手には「1カ月も掛からない」と言われています。

世界は、第二次世界大戦の「戦後」にあらず、第三次世界大戦「その戦前」とも表現される今般、いきなり核兵器や通常兵器が飛び交わずとも、ご承知の通り石油に天然ガスなど、世界のエネルギー源が集中する中東での動乱は、人類の「暮らしの安全保障」にも直結して参ります。

ではなぜ、現行NPTの体制下、イランが今日を迎えるまで「ウラン濃縮」を進めて来られたのか?

NPTには加盟しても、査察となるIAEAの追加議定書には未署名で、そのNPTにせよ「平和利用」であれば核兵器にも転用可能な“高濃縮ウラン”の製造が、ある種「許されている」現状、この辺りを補完し得る体制に、核兵器へ用いる物質の生産や援助を禁止する為の「カットオフ条約」が挙げられますが実質、同条約は利害関係者の思惑も交錯し、現在は悩ましくも宙に浮いた状態です。

そこで伺いますが、約1カ月後に迫ったNPT再検討会議に当たり、本市はかねてより参画の意向を打ち出されておりますので、“広島の心”共々、この度の「核合意問題」から端を発した様に、今後も同じ轍を踏み、世界の人々が危険に晒されぬよう「NPTの内包する諸課題」にも言及して頂きたいと願うのですが、本市のご所見をお聞かせ下さい。

続いて「核禁条約の締約国会議」に目を向けて参りますが、広島市議会でも令和2年第7回の臨時会に於いて、「核兵器禁止条約の実効性を高めるための主導的役割を果たすことを求める意見書案」を全会一致で可決。当時の総理や外務大臣宛に提出していますが、その項目の中でも「締約国会議の開催に当たっては『迎える平和』の取組を推進する被爆地広島で開催するよう国連に対して働き掛けること」を強く要請しています。

また海外でも、第一回締約国会議の議長国、オーストリアのシャレンベルク外相は単独会見に応じられ、「広島や長崎で締約国会議を開催できれば、核廃絶へ向けた、とても強いメッセージになるだろう」とのコメントを寄せられており、現在、G7開催へ名乗りを上げ、奔走する本市ではありますが、仮に本市で「今後の核禁条約・締約国会議」の開催が叶うとなれば、困難を極める道すがら、近未来に築かれる一里塚を被爆者の方々にもお示し出来る事になります。

此処に、心より哀悼の意を表し、お一人の人物を取り上げさせて頂きますと、若く輝く年頃にある20歳で被曝後、1カ月以上も意識不明のまま終戦を迎え、その後も被爆の際に負った血液障害や癌で入退院を繰り返し、3回の危篤状態に陥りながらも奇跡的に回復。

死の淵を彷徨い、体中に火傷の痕を負い、それでも「2度と被爆者を生まない為に」と老いた体を押しては、世界20ヵ国以上を駆け巡るなど、文字通り命懸けで訴え続けた坪井直氏が先の10月下旬、96歳でその生涯を終えられました。

では、誰よりも核兵器の威力と、その甚大なる被害。そして命の尊さと儚さを知る、坪井さんをはじめ多くの被爆者の方々は、なぜ核の傘を必要とせず、当然として「核兵器の存続を許さない」のでしょうか?

それは、殺される理由を考える間もなく、人間の尊厳も存在も無差別に一瞬にして消し去り、人間として死ぬ事も人間らしく生きる事も許さぬ残酷な核兵器の存在を、そこから生み出される被害を、怒りを、悲しみを、苦しみを、実体験を通じ、世のあらゆる政治家よりも心と体に刻まれているからに他なりません。裏を返せば、「現場を知る貴重なリアリスト」とも言えます。

もしも今後、世界の核兵器が「最速で廃絶される」となれば、それは人類の頭上へ広島・長崎に続き、新たに3回目の核兵器が使用された後、無数の人々が悶え苦しむ阿鼻叫喚の模様がメディアを通じ、リアルタイムで克明に世界へ配信され、そこでようやく「これは絶対に次があってはならない」と多くの人類が遅まきながら気づかされた時かも知れません。

ただし、その「次回があってはならない」と既に75年以上にも亘り、覇権国家を前に常に最前線へ立ち、心と体の傷を押し、世界へ訴え続けて下さる被爆者の方々へ。私共は今後、如何なる形で報いる事が出来るのでしょうか?被爆者の方々の平均年齢は84歳を迎えています。

私は、この原稿の執筆中も何かを見出したく、20年ほど前から「決して、あの日を忘れてはならない」と定期的に足を運ぶ平和記念資料館を改めて訪ねました。そして今回も例外なく、この地で起こった紛れもない事実に、涙が溢れて止まりませんでした。

世界では、核兵器の実践使用を想定して、更なる近代化へと改良を続ける国々があれば、未曾有のパンデミックにより、地球上で短期間に“500万人”以上が亡くなろうとも、過去最大の軍事費を費やす国々もあります。

しかし、こうした国々の人々も、かねてから本市が訴え続けている通り、ひとたび広島・長崎を訪れ、被曝の実相を肌身で感じられたならば。

時の米国大統領、初の広島訪問を実現した功労者の一人、当時のジョン・ケリー米国務長官が、その前段にG7の外相会議で広島を訪れ、また米国官僚としても初めて平和記念資料館を訪れた際に「はらわたが、えぐられる様だった…」と語り、芳名録に「世界中の誰もが記念館の力を見て感じるべきだ」と記帳された通りで、此処へ異論を挟む余地はありません。

引き続き、平和記念資料館の力と、そこから復興を遂げた街を世界中の一人でも多くの人々に繋げては、また「被爆の実相」に関連して続けますと、制定後に関係各国で取り決めを一つずつ重ねて行き、その条約を、いわゆる「育てて」行くのが国際法の核禁条約であって、第六条には「被害者に対する支援、及び環境の修復」が掲げられています。

それは核兵器の使用、又は実験により影響を受けた個人へ対して、国際人権法に従い差別の無きよう、医療・機能回復訓練や心理的支援を十分に提供せねばならず、この第六条をお題目で終わらせぬ為にも、唯一の被爆国として培って来た知見を今こそ、日本は締約国会議に参加して世界へ還元すべきであり、時の首相は知らない仲ではありません。

「橋渡し役」をお願いするばかりでなく、まずは本市が「世界と日本政府を結ぶ橋渡し役」を務めるべく、締約国会議を本市へ招き、オブザーバーの開催国枠を設置しては、その上で核兵器禁止条約が「より完成度の高い姿へ」育ち行く、その過程を被爆者の方々へ届けられるよう、此処を“新たなる目標”として設定して頂きたい所存です。

そこで伺いますが、「核禁条約、締約国会議の広島市開催」について、本市は如何なる見解をお持ちなのか?お聞かせ下さい。また来春に開催される第一回の締約国会議に於いて、是非とも「第二回の開催地」に名乗り出て頂きたいと切に願うのですが、本市のご所見をお聞かせ下さい。

続いて「サッカースタジアムを通じた街づくり」について伺いますが、先ずは、ある一通の手紙を紹介させて頂きます。

Bill & Melinda Gates Foundation Dear Sir or Madam, I am Japanese citizen who lives in Hiroshima Japan. And please ask you a Favor.

こちらは、本市の都心部にサッカースタジアムを誕生させようと、2006年頃から一心不乱に取り組み始めた私が当時、「被爆から復興を遂げた広島市の象徴、その一つに新スタジアムを誕生させたく、是非とも寄付のご協力を…」と真剣にビルゲイツ財団に宛てて書いた手紙の冒頭文です。

結果的には財団側より「現在、第三国の教育に力を入れており、協力は難しい」と複数回に亘り、丁寧なお返事を頂戴したのですが、他にもありとあらゆる事に取り組み続けた、この15年間。

現在、中央公園広場には「2023年12月」の完成を目指し、確かなる槌音が響いており、長い様で短かった時の流れに一入の感慨を覚えている次第です。

顧みれば、私は過去20年に亘り、時に業務、時に観客として数多のスタジアムに足を運べば、議員にさせて頂いた後も、それは執拗なまでに「新スタジアム建設へ向けた提言」を重ねて参りましたが、ひとたびスタジアムを建設する段を迎えたらば当然、建築工学をはじめ、より深い専門性が求められ、やはり「餅は餅屋」です。

故に、民間の方々が技術の粋を結集させた作品のご提案を、まるで無垢な子どもの様に心待ちにしては「謹んで学ばせて頂きたい」との思いが強く、近年では提言する機会も最低限に、努めて自重しておりました。

重ねて、現在の事業工程は、着々と現地の準備工事が進むと共に実施設計も佳境を迎え、今後は年が明けてから徐々に本格的な本体工事に入る段階であり、また過度に持ち上げるのではなく、基本設計に目を通しても「非常に練り上げられたスタジアム事業」となっておりますので、今回はスタジアムの“建設後”にスポットを当てて参ります。

改めて「非の打ち所」を見つけ難いスタジアムプランに於いて、かねてより私が「非の打ち所」と捉えていたのが、基本計画に明示された交通計画の「交通需要予測」であり、また「歩行者の交通計画」の部分となります。

まず「交通需要予測」とは、試合当日の観客数を通常時2万人、満員時は3万人と想定し、観客が試合開始へ向けて如何なる交通手段を用いて、如何なる方角からスタジアムへ「来場」されるのかを過去の行動パターン、人流ビッグデータにより分析し、予測値を弾き出したモノです。

では、数字を再確認してみますと、公共交通機関を利用しては一度、紙屋町・八丁堀エリアに到着した後、中央公園へ北上する人々が「80%」。

次にJR、もしくはアストラムで白島駅に到着後、つまりは北側方面から中央公園へ南下する人々が「11%」。

続いて、公共交通機関や自動車を利用して、一度は「広島駅に到着、ないし駐車後」を含め、徒歩に自転車など、広島駅方面から西へ向けてスタジアムを目指す人々が「7%」。

最後に、西の横川・寺町方面から東へ向かってスタジアムを目指す人々が「2%」となっており、この西側から東へアプローチする場合は、おおよそJRなどで横川駅に到着後、そこからの徒歩を予測されています。補足までに只今の数字は、試合開始を目指す「往路」の分析で、試合観戦後、帰宅時の「復路」を表すモノではありません。

ついては、10年以上も地元ホームゲームに皆勤賞で携わり、県内外の観客の方々の「行動パターン」と言えば失礼な物言いですけども、その傾向を熟知する私が、実体験に基づいてリポートしておきますと、コレは本市の公共交通機関網に地政学的な特徴も絡んで参りますが、広域公園の試合時と同様、新スタジアムで開催される場合でも、スタジアムの数キロ圏内まで「自動車」でいらっしゃる方々が間違いなく、非常に高い割合でいらっしゃいます。

そして、週末開催など紙屋町を中心とした駐車場が溢れ返り、待機列が続くのは明白ですが、たとえ平日開催であろうと、その半日前から現地へ向かう人々は相当数いらっしゃり、患者さんも利用する市民病院周辺の駐車場をはじめ、この辺り、事前に十分なる想定の上、対策を練っておかなければ「確実に混乱を来たす」と容易に察しがつきます。

また度々「間違いなく」との表現を乱用したくないのですが、それでも間違いなく。駐車場の「穴場スポット」として最も自動車が集中するのが、川を一つ挟んだ「横川エリア」になるのは確実で、徹底して「公共交通機関での来場」を呼び掛けようとも、私はあの駐車場争奪戦により生じる「半径3キロ圏内の混乱ぶり」を誰よりも知る一人です。

重ねて、サッカーの場合は90分間の試合終了後、その瞬間から大多数の観客が、それは一斉に会場の出口へ向かいますので、クラブ側もなるべく、観客の方々が時間差で帰宅して頂けるよう、試合後も様々なイベントを打つなど緩和策を試みるにせよ、多くの観客がスタジアムのゲートから一歩足を踏み出し、人々で溢れかえる2本のペデと地下道を目の当たりにしては…。

土地勘のある地元民が回避行動を、また土地勘のない人々が横川駅を目指す迂回路として、かなりの人数が「西側方面に殺到する」その光景が、既に私の目には克明に浮かんでおり、2万5千人の一斉行動を軽視してはなりません。

そして、西側のボトルネックは幅員が狭く、欄干の低い「空鞘橋」であり、混乱以上に問われるのは「安全性」で、決して冗談ではなく、試合後は橋の歩道レーンが「まるで岩国寿し」の様に、すし詰めになるのは必至です。

しかし一方、日常では事足りている空鞘橋を拡幅するとなると?「非効率な投資である」との誹りは免れませんし、建設事業費も「ペデ2本分」で既に確定しています。

だからこそ、未来までも予見し、ここで打っておきたい「布石」として、中央公園広場から川を跨いで延びる、新たな「北西ルート」の歩道橋を新設すべきではないでしょうか。

顧みれば、中四国地方でも屈指の乗降客数を誇るJ R横川駅が、現行の新たな駅舎となった2003年や、かよ子バスが復元、展示された2004年当時、都心部と横川エリアを「更に強固に結ぼう」と現在の中央公園広場の位置から北西に川を跨ぎ、歩道橋を伸ばす案も浮上していました。

結果的に、スタジアム構想すら無い時代、現実味を帯びる事はありませんでしたが、私は過去、議員になる前から重ねていたシンポジウムでも都度、「横川への新ルート」を提言していた次第です。

では、新ルートの“事業スキーム”を想定してみますが、環境や健康に寄与するウォーカブルシティに絡め、国から補助金が得られるメニューも存在しますし、一方、都心部から西風新都へ向かう「広島西大橋」の様な、垂直に伸びた塔から斜めに張られたケーブルで橋梁を支える「斜張橋」を用いれば建設費も安く、かつ美しく仕上がります。

それこそ「歩道」として都市計画決定すれば「国から建設費の半分が調達できる」など「やる」となれば、いくらでも「やり方」は存在するのですが、何より目先の算盤勘定ばかりに囚われてはなりません。

横川には、街づくりへ熱心に取り組まれる商店街があり、ヨーロッパなどの慣習を持ち出すまでもなく、試合前に飲食をしては、試合後も試合内容を酒の肴に、仲間と談義に花が咲く。こんな一日こそ、まさに「スポーツ観戦の極み」です。

新型ウイルスが蔓延する度に、また人口減少で客足が減る度に、その場凌ぎの補助金や支援金を商店街に渡すのではなく、向こう30年、50年と、かの地で商売を継続して頂けるよう、持続可能な「架け橋」となる歩道橋を横川方面へ渡し、人々の流れを長期に亘り担保すべきではないでしょうか。

実現した暁には、基町や横川住民をはじめ、市民の安全性や利便性、投資への収益性のみならず、歩道橋が架けられる場所には「雁木」なども現存し、改めて本市の歴史にもスポットが当てられては、また夕刻時、西の空を眺めれば、そこは非常に夕焼けの美しい「絶景スポット」である事実を多くの人々が新発見されるかと存じます。

そこで伺いますが、新スタジアムの開業後、本市は「西側・アクセスルートの安全性」を如何に捉え、また今後、何か手を施すお考えはあるのか?重ねまして「横川への歩道橋新設案」についても本市のご所見をお聞かせ下さい。

続いて「平和な世の中だからこそ、スポーツを謳歌できる」その旨を、松井市長も今日まで口にされて参りましたが、こうした状態が具現化された“歴史的な瞬間”の一つに、かつて本会議場でも触れさせて頂いた、Jリーグ2018年シーズン、サンフレッチェ広島とVファーレン長崎の初顔合わせが挙げられます。

まず同年4月28日、長崎のホームゲームが、PLRay for PEACE、平和を守り抜く、ゴールも守り抜く、J初の「平和祈念マッチ」と銘打って行われたのですが、この「PLRay for PEACE」の「プレイ」の英語スペルには、敢えて宣伝広告の際も「L」と「R」の2つを用いられ、平和の為に「競技のプレー」と「祈るプレイ」の意味が込められるなど、試合前から全国的にも注目を集めました。

そして、長崎スタジアムのピッチに初めてサンフレッチェの選手が登場した瞬間には、温かい万雷の拍手で迎えられ、長崎サポーターより「互いの都市から平和を希求して行こう」と横断幕まで掲げて頂きました。

続いて、約3カ月後の8月11日には、サンフレッチェのホームに長崎を迎え、試合前には広島・長崎両市長の立ち合いの下、両都市から平和大使として選ばれた高校生が、双方の平和式典で用いる「平和の鐘」のレプリカを寄贈し合い、更に学生による「平和宣言」も行われるなど、スポーツを通じての平和活動と都市間交流を誓い合いました。

ついては、何か壮大なる念願が成就する際、有り体に申しますと、そこへの必須条件として「天の時」「地の利」「人の和」が挙げられますが、何の偶然でしょう。

3年前にピッチ上で都市間交流を誓い合った両都市が、今度は3年後を切った2024年の春、同じタイミングで「新サッカースタジアムをオープン」させる運びとなりました。

長崎生まれの広島育ちである私が、一日千秋、天にも昇る思いで、この日を待ちわびている事は強調するまでもございません。

ちなみに、Vファーレンのホームタウンとなる長崎市の場合、JR長崎駅から徒歩10分の好立地へ、サッカースタジアムやアリーナにホテルを併設した「長崎スタジアムシティ構想」として事業を進捗されており、翻り本市の場合も、順調に工事が進みますと2023年の12月に完成後、通常であれば2月辺りに実際、観客を招いた時のシミュレーションとオープン興行も兼ねてプレ・シーズンマッチを行う方向かと存じます。

そこで、広島・長崎とも大規模な事業ゆえ、現時点での確約が難しいのは重々承知の上で、此処に伺います。

まず「完成までのプロセス」に於いて、是非とも長崎市と連携、交流を図った上で、決して大掛かりではなくとも、双方のスタジアムに都市間交流を表す“シンボル”を検討して頂き、かつ最終的には、オープン興行にて「両チームによるプレシーズン・ピースマッチ」の実現を懇願する次第ですが、本市のご所見をお聞かせ下さい。

この歴史的な瞬間は、新たに掲げるPXビジョンの「市民社会における平和意識の醸成」にも必ずや寄与するモノかと存じます。

結びに「広島・長崎に続いて」の展望を一つ。近い将来、権利の制限が緩和されては再結成された「アフガニスタンの女子サッカーチーム」を本市の新スタジアムへ温かい拍手で迎い入れ、6年前に私は試合のアナウンスを担当したのですが再度、復興を遂げた両都市による「国際親善マッチ」が行われる事を心から祈念して、私の一般質問を以上と致します。