インフォメーション

石橋りゅうじ 議会棟控室

Tel.(082)504-2442

スマホ版サイトは以下のQRコードから。

2012年11月 都市活力向上対策特別委員会

まずは、1つハッキリさせておきたい事があるのですが、「旧市民球場跡地に検討」に際し、この度、配布された資料には、至る所に「丹下案」が明記されており、またページをまたがっても、各資料に南北へ亘る、まさに「丹下軸」と呼ばれる「赤い点線」が記されております。

そこで、確認させて頂きますが、平和都市記念建設法の施行によりコンペが行われ、この丹下案が選ばれましたが、これは、あくまで「案」であって、広島市が正式に、政策的に「採択」したモノではありませんよね?

※行政側 答弁

その証拠に、平和記念公園の北側に電車通りがあり、旧市民球場跡地から北側は「都市公園」との位置づけですが、では、その南側、平和公園の部分は、都市計画決定により「何に位置づけされておりますか?」

※行政側 答弁

ここは、しっかりと区分され「記念施設」に指定されており、補足するまでもなく、明確に「平和公園」とは現存する今の場所で、ある種、完結しています。

私も先だって、原爆ドームの耐震チェックを行う際、ドームの頂上まで登らせて頂いては、そこから平和記念資料館の方向を望むにあたり、施設の配置や、緑の木々の配置のバランス、100m道路から垂直に伸びる、縦軸、その一切合財を含め、「今から約60年も前に素晴らしいエリアを造られたものだ!」と感動すら覚えました。

では伺いますが、丹下氏は、どの様な意図があり、平和記念資料館をはじめ、慰霊碑、原爆ドームを配置されて設計されたのか? 事務局側が理解している範囲で構わないので教えて頂けますでしょうか?

※行政側 答弁

2ページの構想(案)をご覧になれば、一目瞭然ですが、丹下氏は、ここを、ただ平和を祈る鎮魂の場所にするのではなく、戦後に荒廃した街から立ち上がり復興する意味を込めて「平和は与えられるモノではなく、自らで能動的に手に入れるモノだ」「このエリアを、創り出す為の、工場にするべき」と考えられました。

ゆえに、100m道路から、すぐ北側に隣接する資料館は「人々が立ち上がる」意味を込め、また「力強い」意味合いを込めて、1階部分にピロティを設け、北側の慰霊碑に向かう、くぐれるゲートとした。

また、この資料館がセンターに位置しては、力強い建物なので、その左右に位置する建物は(現在の本館の部分)コントラストを生み出す為、敢えて優しいデザインにしたのです。

付随して、丁度、平和公園を上空から見れば、つづみ型になっておりますが、こうする事により、全ての動きが中央に集まるよう、センター部分を作り、そこに慰霊碑を配置しては、ネットワークまでも生み出したのです。

そして何より、ご存知の通り、この2ページの、広島上までも含めた図面は、最初に相生橋までの平和公園をデザインし、その数ヵ月後に、表現は失礼ですが、後付として「周囲を、こうしたモノにすれば?」との構想案として提示されたモノで、繰り返しとなりますが、丹下氏の「本意」を汲んでも、平和公園は、あの場所で完結しています。

それを、話に上った「丹下軸」にしても、スタート地点(始点)を設ければ、必然的に「軸の終点」を設定しなければならなくなりますけども、この丹下軸は、平和公園内で「見事に完結している」にも拘わらず、なぜ、その先に「こだわる」のでしょうか? 

では、改めて伺いますが、丹下氏は、前後、日本をリードして来た建築家として、どんなスタイルの建築家でしたか? お聞かせ下さい。

※行政側 答弁

丹下氏は、日本古来の伝統建築も取り入れれば、海外の最先端の建築も取り入れ、その時代、時代で最先端の作品を生み出す「モダンニズム建築」の「第一人者」でもありました。

そのバランス感覚と、作品を設計する上でも、プロダクション方式、つまり分担作業を用いては、様々なアイデア、意見を取り入れるなど、確固たる信念を基に、非常に、柔軟性に富んだアーティストでもあった。

ならば、皆様に問いただしてみたいと存じますが、もしも、今、丹下氏が、生きていらっしゃれば、いつまでも「丹下軸」等に囚われている「現世の人々の取組み」を本当に喜ばれると思われますか?

あの場所で、平和記念公園は完結しており、きっと「私の出来る所までの役割は終わった」「ここから先、ここから北側は、現世の人々のアイデアで私の創造を裏切るようなモノを生み出してくれ!」そう願っているとは思われませんか?

現在、被爆者の方々は高齢化が進み、被爆の惨禍を伝えて行く上でも、ますますの風化が懸念され、こうした時代を背景に、被爆の惨状と恒久平和を後の世代に伝承するにあたって平和記念公園の「存在価値」は、より重要度を増して参ります。

たとえば、「緑の溢れる平和公園に隣接した場所に、緑の公園を設ける」など、これも1つのアイデアですが、木を森で隠して行けば、より存在価値やインパクトは中和されて参ります。

周囲とのコントラストで、平和公園を、より活かす事も、より殺してしまう事も出来るわけで、「景観など気にするな」と乱暴な事は申しませんが、あの場所に聳え立つ「商工会議所」も、あれはあれで誕生の経緯も含め、広島市の歴史です。

勿論、空きテナントを多数、抱える中、「いつまでも今の場所に」とまで私は思いませんが、あの景観で半世紀を迎えて来たのです。

「原爆ドームが世界遺産に認定される」はるか以前から、日常の生活の中、平和公園と広島市民は今日まで共生して来たわけで、この期に及び、何を取り分け「神聖化」されようとしているのでしょうか?

最後に、丹下氏は常に「ヒューマン・スケールの脱出」を掲げられ、建築に携わってらっしゃいました。

つまり「社会的、人間的な尺度から、1つ上のステージを目指されていた」信念を持ち続けた人物であり、丹下氏の情熱と傑作を、今の我々が引き続き、より良いモノにして完成させて行く。

旧市民球場跡地など、今こそ、我々が殻を破る、ブレイク・スルーする時を迎えていると思われますが、改めて、私の意見を如何お考えでしょうか?

※行政側 答弁

平成17年の9月から旧市民球場跡地の検討が始まり、携わった人件費だけでも「約3億円」にも上っているのです。

資料の中に、「欧米の成熟した都市の類似例に見られるように」とありましたが、逆に、欧米の成熟した都市に「お手本とされる様な」エリアを築くべきと懇願し、質問を以上とさせて頂きます。